陽時計と日々記

三十路過ぎて囲碁を始めてみるおっさんのブログ。

3/13 勉強。

水曜日は南森町の碁会所で指導碁。先生と六子局を一局、七子局を一局、打ちました。

六子局に関しては、終局まで打って10目程度の負け。で、負けたら一子増やすということになったんですが、七子で強めに打つという事で、六子局よりもキツイ展開になり、死活を見落として中押しで負け。それ以前に序盤が微妙な展開で、それ以前に敗勢という、良いところがあまりない碁でした。

まぁ身の無い勝ちよりは身のある負けの方が良い、と思っているので、勝敗は気にならないんですが(そりゃ勝った方が嬉しいですけど、それはさておき)、七子局にしろ、六子局にしろ、もうちょっと…こう、なんとかなったんじゃないかなぁ、なんとかなったよなぁ、と思う部分が多く。完全に生きている・連絡していると思っていた部分が、実はオイオトシやグルグルマワシで取られる事が発覚して、取られはしないもののダメヅマリにされたりしたりと、自分が思っている以上に地が減らされたりと…ヨミがダメだなぁ、と。相変わらずウッテガエシに弱い点もダメで。流石にウッテガエシに取られてから気付いたって事はだいぶ無くなったんですが、それでも(あ、これウッテガエシにされるじゃん)と、一手前ぐらいになってようやく気付く、みたいな。最初から分かっていればツグだけなんですが、直前まで見落としていると、(他に見落としている部分は無いか)と、精神的に後手に回ってしまうのも良くない気がします。

それよりも今日気になったのは、隣で指導を受けていた方のこと。

最近、九路から十三路に上がられた方の様なのですが、どうも13路での地の考え方や構想が持てないようで。「どうしたらいいのかわからない」と言うような事を、頻繁に口にされていました。また、「ここに打つと、なぜ確定地になるのか分からない」「何故この手が守りの一手になるのか分からない」「攻めると言う事が分からない」など。また、「どこに打ったら良いのかわからない」とか…これは構想が無いという事の裏返しだと思いますが。おそらく地の感覚が、まだあまり無いんだろうなぁ、と。

それを隣で聞いていて、「あー、そういや、自分も以前は同じような事を思っていたなぁ…あれ、でも、どうやって克服したんだろ?」と、同じような事を同じように悩み、隣の方が言っている事に同意も出来るのですが、自分がどうやって克服したのかを全く覚えてないんですよね。かなり悩んだ記憶があるんですが、それでも分からないなりに碁を打っている間に気にしなくなった、という感じだったのかも知れません。

気持ちは痛いほどわかるのに、有用なアドバイスは何も思い浮かばず…とりあえず、四子置かれて打たれていたようなので、「とにかく最初に置いた四子を取られないように気をつけたら良いんじゃないでしょうか」と言ってはみたものの、どうにも釈然とされなかったようです。んー…「全部の石を取られないってのが私には無理」というような事を言われていたので、攻められることに対しての恐怖感みたいなのがあるのかな。確かに私も十三路に行きたてぐらいの頃に、師匠と打っていた時は、そうだった気がします。

この頃に確か、囲碁ステで井澤 秋乃先生や佃 亜紀子先生に相手をして貰って、色々と序盤の構想に対するアドバイスを貰った記憶もあるんですが…印象に残っているのは、井澤先生から言って頂いた、「置き石は捨ててはいけない。与えて貰ったハンデを自ら捨てる行為と同じになるから」という言葉と、佃先生から言って頂いた、「こんな序盤にどこに打ったらどうなるかとか、プロでも分からないし、そんな事考えてません(笑)」と言って頂いたこと。

後者の言葉は、囲碁で良く言われる"どこに打っても良い"という言葉の意味が少しわかった気がしたんですね。要は、その一手を打つにあたって、何を思い考えて打ったのか、ってのが大事で、その手が何かに響くかってのが大事なんですよね。

前者の井澤先生から頂いた言葉に関しても、この一言をもらったおかげで、序盤の構想を持ちやすくなったと思います。スミにかかられたらウケるなり攻めるなりして、スミをまずしっかり取る…というような事を考えられるようになりました。まぁその後、置き石が星にある以上、スミは確定していないという事を知るのですが…。

多分、この二つの言葉が無かったら、自分は十三路はともかくとしても、十九路では挫折していたような気もします。この二つの言葉は、自分の中で特に強く残っている言葉ですねー。

ま、考え方は人それぞれだと思うので、これが正しいって訳では無いと思いますが。置き石をさっさと捨てて他の大場にまわるって考え方もあるみたいですし。